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膳所城事件を探る④-1

2013年06月21日17:06:00

【編集長は「緋村剣心を匿ったのは膳所藩ではなかろうか?」と勝手に思っています!】

膳所城事件(徳川家茂暗殺未遂事件?)を調べるうちに
歴史の迷宮に迷い込んだ感のあるasa-shiga編集部。
前回膳所城の廃城を願い出たとされる藩士榊原専蔵を半ば悪者のように書きましたが、
ある資料に会津戦争後、野ざらしにされた会津藩兵の埋葬を新政府に願い出たという記述を見つけました。
榊原専蔵、いい人じゃないか・・・


ペリーが浦賀にやってきたのは嘉永6(1853)年。
いわゆる黒船来航から幕末が始まったと考えるのが一般的で、
この事件から国中が大騒ぎになります。

膳所藩も例外ではなく、海防のため藩兵を江戸に送ったり、
“都の春”と呼ばれる旧式の大砲を淀川沿いの警備に使う事になります。

膳所藩士で江戸詰の儒者関藍梁(セキランリョウ)は、
幕府側の全権林大学頭の随行員としてペリーとの折衝にあたっています。

ある日、ペリーが「西洋のコーヒーのような飲み物が貴国にはないのか?」と尋ねました。
関は持参していた膳所のお茶を出したところ、
このお茶を気に入り「貴国の産物の中で生糸とこのお茶が欲しい」といわれました。
これを受けて、膳所藩では対米輸出用のお茶生産にかかります。

膳所藩士太田重兵衛が、膳所(園山)の荒地を開墾して茶畑を作り製茶に成功。
膳所藩の茶司に任じられました。

太田重兵衛という人物は常に念仏を唱えながら過ごしていたので
「念仏重兵衛」と呼ばれていたそうです。

膳所産のお茶は信楽焼の茶壷に入れられ
神戸・横浜から輸出されていたと伝えられます。

開国か鎖国かの対外問題は、国内問題に発展していきます。
膳所藩にも“尊皇攘夷”か“佐幕”の争いが起こるわけですが、
その話はまた次回に。

  

Posted by 朝日新聞滋賀販売 HISTORY

膳所城事件を探る④-2

2013年06月21日16:29:00

【地元の歴史を紐解いて日本の歴史を考えるのは「ならぬこと」ですか?】

2013年の大河ドラマは会津藩を題材にした
『八重の桜』です。
ペリー来航を受けて会津藩は品川の警護を任されていますが、
膳所藩だって江戸に藩士を送り、淀川の警備を任された際は
膳所から自前の大砲『都の春』を持ち出しています。
膳所藩所有の大砲には名前が付いています。
どれも雅な名前ばかりですので、よかったら調べてみてください。


膳所藩は徳川幕府始まって以来の譜代藩です。
譜代でなければ東西交通の拠点である大津は任されないわけで、
事あらば膳所は幕府の為に働かなければならなかったはずです。

しかし、京都に近く、御所の警備も勤めていたから朝廷に対する
親近感が芽生え、尊皇の思想も強かったと考えるべきか。

幕末期の膳所藩主は本多康穣(ほんだやすしげ 1835-1912)です。
膳所藩最後の藩主となる彼の思想は「攘夷」。
ただ単純な異国嫌いではなかったようで、
個人的には西洋科学技術に興味を抱いていたそうです。

彼は西国諸藩の情勢を調べるべく、藩士森祐信(のちの十一烈士)を
西国に派遣しています。

ですが藩内は尊皇派と佐幕派の対立が顕著になっていきます。
シリーズ初回で紹介した川瀬太宰や、榊原専蔵などは尊皇派の急先鋒。
西国に向かった森祐信も尊皇派に属しており、彼らは歴史の中では
“正義派”と呼ばれます。

対する佐幕派は家老の村松猪右衛門や本多頼母といった
藩の重鎮にあたる人物、こちらを“俗論派”と呼んでいます。

膳所藩の対立は、俗論派優位の状態ですすむのですが、
京都のすぐ近くで尊皇・佐幕がいがみ合っている姿は幕府としても
見過ごせない。
しかも膳所藩は徳川開闢以来の譜代ではないか!?

ここで「ならぬことはならぬことです!」と登場するのが
京都守護職。言わずと知れた会津藩です。
  

Posted by 朝日新聞滋賀販売 HISTORY

膳所城事件を探る⑤

2013年06月21日15:42:00

【地元の歴史を紐解いて日本の歴史を考えるのは「ならぬこと」ですか?】

前回紹介した膳所藩の尊皇派を“正義派”、
佐幕派を“俗論派”という呼び方は、長州藩と同じ呼び方だったようです。
思うにこの呼び方は尊皇派側から見たものですから、
逆に佐幕派側から見たら佐幕派こそ“正義派”であり、
ならば尊皇派のことはどう呼んでいたのだろう・・・と
意味もなく考えるわけで・・・


大河ドラマ『八重の桜』でおなじみ、会津藩が京都守護にやってきたのは
文久2(1862)年。情勢は不逞の浪士が策謀を巡らせ、
京都の町では暗殺・天誅がはびこるという状態になっていました。

この時期の攘夷派浪士の行動は常軌を逸しており、歴史の中では長州などの
西国諸藩の一部が過激化しているよう伝えられていますが
膳所藩攘夷派の考えもまた過激です。

急進派の榊原尊蔵などは、藩主本多康穣に謁見。
藩主から幕府に攘夷を進言すること、受容れられなければ膳所藩が独自に攘夷を
決行すべきだと訴えたそうですが、少ない資料の中には攘夷の具体的な例として
「彦根に火を放つ」という荒唐無稽かつ信憑性にも乏しいものもありました。

榊原は後に佐幕に偏る藩論を一挙に覆すべく家老の暗殺を画策。
実行に移すことになります。

他にも脱藩してより過激な攘夷活動に身を投じる者たちも出てきました。
これでは確かに京都守護職(会津藩)は膳所藩に目をつけることになるでしょう。

会津藩は支配下にある新撰組などに膳所に密偵(スパイ)を放ち情報を収集させます。
川瀬太宰など膳所の攘夷派は狙われていたんですね。

そして幕末史で重要な『八月十八日の政変』(1863年)が起こります。
この事件を境に時代の潮流に変化が起きるのですが、そこから先はまた次回。
  

Posted by 朝日新聞滋賀販売 HISTORY

膳所城事件を探る⑥

2013年06月21日15:04:00

【幕末維新に関わっているのは会津・長州・薩摩だけじゃないんやでぇ~!】

先日、お客様から「もっと勉強をするように・・・」と歴史モノの雑誌を頂きました。
膳所のことを書いた雑誌かと思ったら、「日本とトルコを結ぶ絆 エルトゥールル号の奇跡」
って・・・
さて、問題です。お客様から頂いた雑誌は何でしょう?
答えはasa-shiga紙面のどこかに書いていますよ。

大河ドラマ『八重の桜』と妙にリンクするのですが、京都を牛耳る長州藩を追い落とすべく
会津藩に薩摩藩が手をかして起こった事件が『八月十八日の政変』です。
そして長州藩が局面打開のため兵を挙げて京都に攻め上がったのが
『蛤御門の変』『禁門の変』です。
この時、膳所藩も御所警備の一翼を担って太秦に駐屯しており、
長州藩の嘆願書を取り次いだりしています。また『禁門の変』では、
膳所軍は長州藩を行き会ってもあえて戦わなかったといいます。
中には脱藩して長州軍に投じた膳所藩士もおり、粟屋達道という人物が堺町御門内で
戦死しています。
膳所藩ではこの前後で脱藩が目立ち始めます。
以前より紹介していた榊原専蔵は、佐幕に傾く藩論を一変させるべく家老村松猪右衛門を
襲撃して失敗。禁固に処されています。
このような藩内の情勢ですから幕府も膳所藩に目をつけます。
敵なのか味方なのか良く分からない。
そこで来る長州征伐を前に一計を案じたのではないでしょうか?
いわゆる膳所城事件が起こるわけです。  

Posted by 朝日新聞滋賀販売 HISTORY

膳所城事件を探る⑦

2013年06月21日14:50:00

【大河ドラマ『八重の桜』は、膳所城事件を完全にスルーしました。残念!!】

膳所城事件(1865年5月)
八月十八日の政変で京都を追われた長州藩に対し、幕府は長州征伐を決定します。
時の将軍徳川家茂は陣頭で指揮をとるべく上洛することとなり、
膳所城で一泊するとの通達が膳所藩に寄せられます。
ところが京都守護職(会津藩)から「膳所藩士保田信解ら勤皇派の藩士達が、
長州藩と通じて将軍来泊を機に不穏の企てをしており、将軍の膳所宿泊は見合わせる」
という通達が舞い込んできます。
これに慌てた膳所藩では藩内の尊皇派の一斉検挙が始まり、
名前の挙がった中老保田信解ら藩士を投獄。
幕府に対して予定通り膳所城に来泊してもらえるよう懇願したものの容れられず、
膳所を通りすごし大津で一泊することになりました。
将軍一行が膳所領内を通った時は極めて警戒厳重で、
将軍の駕篭が行列のどこにあるかすら分からなかったそうです

面目丸潰れの膳所藩は取調べの末身分の高い4名に対し
城下安昌寺(膳所1丁目)で切腹、残り7名に岡山墓地(湖城が丘)で斬首という
重い処罰を下します。
将軍の宿泊ドタキャンから5ヶ月後のことになります。
・・・とここまでが歴史的事実から紹介した膳所城事件です。
次回は「膳所烈士」と崇められる人々とその後に触れていこうと思います。
  

Posted by 朝日新聞滋賀販売 HISTORY

膳所城事件を探る⑧

2013年05月30日16:33:00

【語られない歴史は紡ぐことができるのか?地元の歴史を紐解くコーナーも8回目です。】

膳所城事件を知る方から『話を聞いてください。覚えていて欲しい。』と言う連絡を受け、話を聞きに行きました。
なるほど、『受け継がれる意志』とはこういうことか・・・



膳所烈士が眠る安昌寺と岡山霊園前。彼らとその家族の名誉は明治中期まで傷つけられたままでした。




膳所城事件を知る人は少ない。地元の人間でも“膳所烈士”という人達がいて藩の名誉のために命を捧げたのだろう…と思っていたのだが実際は悲惨としかいいようがない。
事件は冤罪であった可能性が高い。幕府側の膳所藩士上坂三郎左衛門という人物の密告に膳所藩や京都守護職・京都所司代が乗じた形で疑わしき者、あるいは川瀬太宰のような危険人物(幕府にとっての)を一網打尽にしたというのが真相に近いようです。

切腹、あるいは斬首された11名への処分は言うに及ばず。処分はその家族にも及んでいます。
いわゆる「膳所十里四方所払い」、平たく言えば追放処分です。
彼らは藩の名誉のために犠牲になったものの、藩から見れば“藩賊”であり何ひとつ報われない。
報われないことを承知の上で彼らは生きた証を後世に残します。
それが“こより字”。
獄中に捕らわれていた数ヶ月間、紙などは与えられなかったため、彼らはちり紙で作ったこよりで歌などを綴っています。
この“こより字”は、大津市歴史博物館に所蔵されています。
興味のある方は大津歴史博物館に行って見てください。
  

Posted by 朝日新聞滋賀販売 HISTORY

ホームページリニューアル

2013年04月22日16:55:00

ホームページをリニューアルいたしました。
イベント情報やお店情報など順次更新予定です。
ぜひご覧ください。  

Posted by 朝日新聞滋賀販売 NEWS

1月の健康情報

2013年01月23日15:17:00

役立つ健康情報をご紹介!  

Posted by 朝日新聞滋賀販売